蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

語学学習は不要なのか

語学はもう要らないと言う人がいる。私は実はそうではないのではないかと思っている。特にほんのちょっと先の未来を生きる人々にとっては。

日本人はきっとこれから少数になっていく。そして日本語話者が減る。一方、機械翻訳は高性能になる。スマホや近未来のデバイスを用いて、安価に使用できるようにもなる。はず。そうであってほしいし。

機械翻訳を使って、誰でも手軽に母国語以外のコンテンツを楽しめるようにはなるのだろうが、代わりに翻訳をしてくれる人も通訳をしてくれる人も減ってしまうのではないか。純粋な日本語話者の減少と機械翻訳の台頭で、翻訳・通訳という仕事の専門性は逆に高度な分野になり、今とは違った形になっていくのだろうと想像するのだ。

特に仕事の中では、そんなもんは自分で調べなさい、自力でわかりなさい、と言われるラインがやってくる。わかりかたにはいろいろなコンテキストがあると思うが(きっと言葉だけでない様々なものを含むだろう)、何をどうわかるべきなのかを、まずわからないといけない。

だから、機械翻訳が優秀になっていくとしても、本当の意味でテレパシー会話や電脳通信ができるようになるその日までは、自分でわかっておく必要が残り続けると思っている。

対話する老人たち

何より、みずから生まれてくる言葉で対話をするというのは、たとえどんなにつたない語学力であっても、それはそれは楽しいものだ。それを実感として持っている以上、語学が不要だとはどうしても思えない。

誰かと語らう楽しみとして言語や語学を学ぶ。そのたったひとつのシンプルな理由があれば、不要論や時間の無駄という声に対する反証はしなくていい。誰に強制されているわけでもない。語る言葉を持ちたくて、言葉を求めるのだ。

この世に生きているうちは、語学という贅沢を存分に楽しもう。

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