蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

表現の脅迫

少し前まで、「表現に脅迫される」という表現に脅迫されていた。

いや、単に自分でそういう言い方をしているだけなんだけど、それにしても脅迫という言葉が相応しいくらいに考えさせられていた。言語化という表現方法を取る時にも、常に表現からの脅迫を受けるわけで、うっかりすると自家中毒を起こしちゃう。

表現によって立ち現れた何かが、いつも本質を表しているとは限らない。表現しましょう表現しましょうと追い立てられて、空疎なアウトプットをしてしまう経験を、誰しも一度はしているのかもしれない。

世界は表現で溢れている

どうしたら、そんな状況から脱することができるのかなぁ? ぼんやりと考える。技術だったり、道具だったり、言葉だったり。一度そういうものから自由になればいいんだ...というあたりが着地点になるんだろう。

自由になった後で、やはり言語化という壁の前には戻ってくることにはなるのだし、どうせ縛られる前提で自由に自由になってみればいいのだろうな。

「自由に自由になる」のは意外と難しい。メタな意識が必要なわけで、表現からの脅迫に立ち向かうためには、メタ認知と仲良くなる必要があるのだ。そんなこと、やすやすとできるなら苦労はしない。生きるって果てしない。

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