蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

同時代性と文脈

ある時代の文脈を救い取ろうと必死だった世代と、もうそれがそこにあって当たり前の世代とで断絶がある。だから人は同時代性に対する特別な感情があるのだし、同時代的な体験を共有したという事実を大事にする。

同時代的に文脈を生み出し補完し翻弄されてきた世代と、それを歴史の一部として認識する世代。そのあいだにも、世代や時代を超えて共有しうる文脈はある。それは一過性の流行ではなく、なんらかの普遍性やエッセンスを含んでいるものだからなのだろう。

時代はめぐる

しかし、そうした文脈を共有しようとする時でも、同時代性でしか実感し得ない感覚を(なんの他意もなく)含めてしまうことがある。

自分の生きている時代の出来事をすべて構造化して把握している人間なんていないし、ましてやそこに乗っかる自分の感覚をきれいに切り分けて認知できる人間なんていない(と思う)。だから、ついうっかり雑に感覚を共有しようとしてしまうし、「わかってもらえるだろう」と油断してしまう。

もちろん、同じ時代に生きたからといってすべてが共有できるわけでもない。物事は複雑なのだ。複雑なものの中からぬるっと取り出して単純化できるのは、わかってもらえないという事実だけだ。

わからないから、断絶の可能性をはらむ。同時代性やそれにまつわる文脈を語る時、それに気を付けなくちゃなって思う。

Copyright © Hitoyam.