蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

行動するサイレント・シチズン

普段あまりSNS上で自分の政治信条について詳しく発言することはない。しかしわりと明確かつ強い信条を持っているタイプだという自覚はある。

最近は特に、市民であるか国民であるかの自覚の違いによって、自分の中の政治信条が大きく二分されていると感じる。それらを対比すると、中には互いに反するもののあるが、ダブルスタンダードではあっても矛盾ではない。

私は選挙には欠かさず行くが、それは国民としてのふるまいだ。他方で、自分の暮らし方や働き方ひとつひとつに自分の意思を反映させたいと思う自分は、一市民としての自分であると考えている。

また、政治信条とは異なる部分として、思想やイデオロギーや宗教観のようなものも当然持っている。それらは国民としての自分や市民としての自分ではなく、個人としての自分のものだ。私はおそらく、この領域の自分がいちばん強い。

そうした「自分たち」が自分の中にあるのは自覚しているが、トピックごとに「自分たち」の考えを的確に切り離して語るのは骨が折れる。残念ながら、自分の中の強いバイアスをコントロールできるだけの器用さは持ち合わせていない。

すべての「自分たち」に誠実であろうとすると、私は声を上げることができなくなる。統合的にひとことで「自分たち」を語るのは、少なくとも今の自分には不可能だ。声を上げるだけで単純に自分の声が受け入れられるなんて思っていないふしがあるし、第三者からはよく「理解してもらおうとする欲求が欠けている」と指摘される。

小さなステップ

それぞれの信条をどう表明するかは、個人の自由だ。私は基本的に声を上げない。声を上げる代わりに、それぞれの「自分たち」が納得できるよう、小さな行動を起こす。断片的で小さな行動、しかし確実に自分の意思を反映した行動。声を上げる代わりに、自分の一歩目を自分で踏み出す。

サイレントであることが正しいことかどうかは知らない。けれど、信条の表明アクションくらいは、自分の中の「自分たち」の納得する形でおこないたい。行動するサイレント・シチズンとして、この時代を生きるのだ。それもひとつの「声」なのだと言われれば、それはそうなのかもしれないしね。

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