自分は相対的に「自分ってものがない人間」だと思って生きてきたのだけれど、他人から見るとそうでもないらしい。とはいえ、何との対比で Relative なのかという話でしかないし、その感じは単なるコンプレックスでしかないのだろうけれど。
なんでこんなことを言い出したのかというと、hysmrk さんのブログを読んだ時のメモが転がり出てきたからだ。以下は hysmrk さんのブログエントリの引用。
この間、「hysさんて変わってますね」と言われた。「変わってる人」という称号を与えられたとき、私はまず身構える。放っておくと、その回数を指折り数えて「私よく変わってるって言われるんです」と言う人になってしまうのではないか、と怯えるのだ。
(中略)
自分に自信がない状態で無防備にあれを受け取ると、無意識にその称号に寄っかかり出すのだ。今のまま自然体でいても、私は世の中において希少性高い存在と、許された感覚に甘えたくなる。
「変わってる人」という称号 - 心のうち
なるほど。私は逆だ。私は自分が凡人であると思っているし、自分が常人の尺度を持った凡人であることを明確に強調したいし、理解していただきたいと考えている人間である。なぜかというと、凡人であること以外に許された存在になる方法がないと感じるからだ。
なのに、時に「変わってると思われたいんでしょ?」って言われることがあり、そんな時は苦痛でしょうがない。そんなこと1ミリも思ってないのに。
この苦痛は、相手側が持つ「変わっていると思われることに対する希少性」意識によって、ねじれた形で勝手にタグ付けされる不快感とセットだ。その人にとって変わっているという尺度のうちに入ってしまったら、その人の手によって私のものとは違う自意識が私のものとして認識される。認識されるだけなら不快感だけだが、それを伝えてくる人を目の前にすると、苦痛に変わる。
他人の認識はさておき、私の不安は別のところにある。
あなたはなんでもはっきりしてるよね、しっかり自分を持ってるよね、と言われるたび、「はっきりしっかりしてるように見えるらしい自分」と「自分ってものがない自分」の間のグラデーションが見えなくて不安になるのだ。私にとっては、自分がどう思われているかそのものよりも、果てしなく続く見えないグラデーションの方が怖い。
人にはいろんな不安の形があるのだなぁと思うと、それはそれでまた面白く捉えることができるし、違う角度から見るとそう思えるのは確かだ。そうやって視点論点を意図的にぶらすことで、不安の在りかを曖昧にし、今日も明日も不透明な毎日を生きていくのである。