蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

『遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ』で考えたこと

ロイス・ホルツマンの『遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ』がとてもおもしろかったので、読書しつつ思ったことなどをメモするエントリ。

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ 表紙

本書では「パフォーマンスが人間発達の道具と結果の弁証法的活動である」とする考え方が述べられている。

私たちは自分たちのやり方で、ヴィゴツキーの方法論についての記述を解釈した。人間は道具を作り利用するだけではなく、新しい種類の道具――道具と結果の道具をも作り出すと考えた。そればかりでなく、人間の発達も道具と結果の方法論に従う。ヴィゴツキーは大人との言語ゲームとごっこ遊びによって、乳幼児が言葉の話し手となることを示した。この2つの活動においては、道具(プロセス)と結果(プロダクト)が同時に出現する。
(p.ii)

上記引用部分で言われていることを完全に飲み下して自分なりの理解として消化するには、もう少し時間がかかりそう。だけど、現時点での生煮えの理解において、違和感のようなものはない。

たとえば、deCAFE などの活動で目指していることそのもののようにも思える。ただ、自分の仕事や活動の中では、ホルツマンの言っているところまで到達できていないと感じる。それは、まだまだ道具と結果の二元論化から脱せていないと思うからだ。

ことばに対する思考の関係はモノではなく、思考からことばに至る、またことばから思考に至るプロセスである...思考は表現されるのではなく、言語によって完成される。それゆえ、私たちは、言語において思考が樹立される(つまり、あるものとないものの統合)と言うことができる。どの思考も統合を目指す。つまりあるものと他のものの関係を樹立しようとする。あらゆる思考は動きのなかにある。それは展開する。
Vygotsky, 1987(p.59)

ワークそのもの、もしくはリフレクションの中で、「思考を外化して可視化する」ということをずっと考えてきた。その観点では少しずつ洗練されてきているし、結果のための道具立てもできるようになってきたのだが、それをヴィゴツキーの言葉から捉え直してみると、外化の見方について脱構築していないということになる。

「場にあるものを可視化・構造化する」というのは最近では当たり前のように耳にするようになったトピックだ。しかし、思考と話すことが統合的なものだとした時に、今よりももっとよい形でスパイラルを生み出すことができるのではないか、と。

話すことの構造は、単純に思考の構造の鏡像ではない。それゆえ、衣服のように思考に着せることはできない。話すことは、発達した思考のただの表現ではない。思考は話すことへと変換されるとき、再構造化される。それはことばによって表現されるのではなく、完成されるのである。
Vygotsky, 1987(p.59)

言葉が思考の構造の鏡像ではなく、単なる表現の手段でもないと考えると、さらに興味深い。たとえば、思考と言語の関係を脱構築した上で、より影響を与え合うことができるインターフェイス/相互作用を高めることができるインターフェイスを提供できるか。ヴィゴツキーとホルツマンの考え方に学んで、もう少しブラッシュアップしていけるのではないか。

たまたまのタイミングなのだが、deCAFE で新しく取り入れはじめたリフレクションツール(まだプロトタイプ的にはじめたばかり)がある。それを使った回では今までと違う感触があった。その感触は「思考からことばに至る、またことばから思考に至るプロセス」を実感できたということなんじゃないかな、と振り返っている。目指しているものに少しは近づいたのかもしれない。

他にももっと引用したい内容や思うところがたくさんあるのだけれど、ひとまず今回のメモはこのあたりで終わりにする。ホルツマンの著書もっと読みたいなぁ。著作はたくさんあるのに、翻訳本は...。内容的に原著を読むのは厳しそうだし、残念。


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