何らかの分野の専門家がそばにいるというのは、とても貴重なことだ。彼らはみんな、深いところで呼吸をしている。私たちと同じ地面に足を乗せて立っていても、その目線ははるか地平に突き抜けている。
自分があずかり知らない世界のプロが隣でまばたきをするだけで、自分にもほんの少しだけ見えるものがある。気付かせてもらえるものがある。
先日はそんな体験を「演劇的であるということ」という記事に記したのだけど、
そんな素人の私が彼の目線と切り口をほんの一瞬借りて、彼という眼鏡と通して世界を覗き見してみた時、ああなんということだ、本当にこれっぽっちもわかっちゃいなかったんだ、と気付かされる場面があったのだ。
気付いてしまった後に自分のこれまでを振り返ってみると、足あとのそこかしこにわかってなさがにじみ出ており、一歩ごとにわかってなさの水たまりができているのではと思うほどに、至らなさがくっきり見えるようになる。これは大変に痛いことで、知ってしまったことによってちくちくと刺されて夜も眠れない日々が続く。
そのちくちくから逃れるためには、覗き見した世界で自分がピントを合わせることができた場所まで、ずんずんと歩いていくほかはない。自分ではよく見えなくても、一度見えたあの場所に、行くのだ。方向が合っているか、距離はあとどのくらいか、わからなくて不安だけれど行くのだ。うまくいけばきっと、近いところにたどり着ける。
そんなふうに捉えてみると、自分はどうだろうかと少しだけ背中が寒くなる。誰かに差し出せるような眼鏡を持っているのだろうか自分は。いやいや、ないなぁ。ないない。自分が目指したい深みはまだまだまだまだ先だし、うろうろしてばかりでなかなか前に進んでいない。誰かに眼鏡を貸してもらうばかりで、差し出す眼鏡がどこにもないんだ。
ならばもうしばらくは、上手に眼鏡を借りる立場でいたい。少しだけ遠くが見えたら、そこへ向かうことができるから。彼らの眼鏡で見せてもらえるものを大事にしたい。同じものを、いつか誰かに見せてあげられるかもしれないから。
いろんな眼鏡がまわりにあってありがたいという気持ちそのものを、ちゃんと持ち続けること。それを才能や個性と呼ぶにはあまりにももったいない。後天的であろうとも、自分のものにしておきたい。