ある冬の話。高めの塀に囲まれた他人のおうちの庭に咲いている花を見た。
てっぺんがちょろっとだけ見えて、きれいだなと思った。風情がある、という表現がぴったりの様子で。よく手入れされていて、愛情がかけられている枝ぶりがわかる。このお宅の方が自分の庭を眺めるのは、さぞかし幸せな時間であることだろう。
冬の空に映える枝先。こんなに美しい枝ぶりなのだから、その下の部分も美しいのだろう。花の咲く木の立ち姿の全体像が見たいと思った。ちょっとだけでいいから、このお庭に入れたらいいのにな、とも。
美しいものをもっと見たいという気持ち、それは誰にでもある。だけど、ささやかな誰かのための庭に踏み込みたいと思うかどうか、実際に踏み込むのかどうか、そこは大きな分かれ目だと思う。
私は確かにあの庭が美しいと思った。だけど、誰かのための庭を盗み見たい自分に浅ましさを感じたりもした。素直なおのれと浅ましいおのれの境目はどこにあるのかな。普段意識することはないけれど、そういう気持ちのバランスで毎日を生きているんだなぁ。
あくまで私は、だけれども、自分の中の矜持みたいなものがあって、感性と矜持が折り合うところを見つけて生きている。常識とかマナーと言葉で言うのは簡単なのだが、「あ、今これ自分が折り合っているところだ」みたいなボーダーラインを意識してみると、必ず自分の感性の縁に辿り着く。
そういう形で自分と再会してみるのもおもしろいと思うのだ。自分の感性の縁、機会あるたびに見つめてみたい。