蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

常識、あるいはコンテキスト

何が常識で何が常識でないのかわからない。そんなものはどうにも無意味で、やっぱり常識なんてわからない。

人材派遣会社で行われた一般常識テストで100点満点を取ったことがある。普通の人は満点を取らないとも言われた。つまり常識テストで満点を取る者は常識人ではないのだと言う。意味がわからない。

日本ではトイレにトイレットペーパーがある。それはトイレに流してよい。しかしある国のトイレには紙がなくてシャワー(当然おしりを洗うためのもの)だけがあったりするし、ある国のトイレでは紙をトイレに流してはいけなかったりする。他にも文化やトイレの数だけルールがあるはずだ。

シャワーを使うのが当たり前ならば、便器とシャワーがあれば言葉は要らない。シンプルイズベストである。しかし、トイレで何をするのかが共有できていなければ、シャワーを見つめて途方に暮れるしかない。私ははじめてマレーシアのシャワー付きトイレに入った時、シャワーがシャワーであることすら理解していなかった。

マレーシアのトイレ

シャワー付きトイレにおけるシャワーは、iPhoneにおけるホームボタンに似ているのではないだろうか。

iPhoneのホームボタンって何なのか、押していいのか、いつ押すのか。そもそもそれがボタンだって気付いていないことも含めて、はじめて触る人にとっては意味不明なものなんじゃないのかな。現実世界に即した物理ボタンであるにも関わらず、単なるメタファーであるアイコン群よりも存在感がない稀有なボタン。

私の母親世代の人で、ホームボタンの存在が理解できていなかった人を何人か知っている。でも、それを学習した途端、それらのことは「常識」になる。意味不明なものが常識になる瞬間があるのは理解しているが、その瞬間がいつ訪れるのか、それが不思議でしょうがない。

文化の違いは世代や住む場所で大きく違う。グローバル化した現代だからこそ、そうした違いを分かり合える時代なのである。…なんてことが手放しで起こるはずもなく、むしろ私にはより細分化してローカライズされているように見える。

同じ国に住む同じ世代の人間だとしても、文化や語彙が違えば常識が違う。学習する機会がない限りわからないものはわからないし、わかってしまったらわからなかった時のことを忘れてしまう。

常識というのはコンテキストの一部であり、現実世界のコンテキストは複雑過ぎる。常識が常識になるための条件というのはなんなのだろう。もしかしてそんなことは、みんなの中ではすでに常識だったりするのかな。

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