人は人それぞれに感情曲線が違う。同じ体験をしても人によってテンションの上がるポイントは違うし、印象に残ることが同じではない。
他人に共感などと言うが、共感ってそんな生やさしいものじゃない。会話の流れで共感するという表現を使うことはあるが、それは言葉のあやのようなもの。共感するということは、本当はもっと繊細なものだと思っている。
共感できないくらいで人でなし扱いされるのなら、みんな等しく人でなしだ。共感の強要でパーソナルスペースを侵されるくらいなら、共感なんてされたくない。誰の色が傍にあったとしても、自分は自分の色でいればいい。
共感できているかはわからないが、同感だなと思うことはよくある。同じように感じているわけではないけれど、私なりに似た感情を持っているとき。また、それが想像できるとき。同感だと思うことは、私にとってカジュアルだ。
「あなたの気持ちに共感はできていないかもしれない。しかし同感はできるし、できないとしても理解することができる。理解に至らなくても、想像することはできる。もし想像ができなくても、あなたの領域をできるだけ尊重したいと考える。自分の領域を尊ぶのと同じように、あなたにはあなたの領域がある」
そこには人間の希望がある。わかりあえなくてもいいということにほかならないからだ。共感できなくても、同感できなくても、まだ理解というやつが残っている。想像というすばらしい力が残っている。わかりあえなくても、共に生きる術は何重にも何重にもあるのだ。
お互いの色で自由に飛べるような世の中になれば、みんなが軽やかに生きられる。軽やかに生きるために、共に生きる術ならなんでも使って生きていけたらいい。