高校生と呼ばれる年代(正確に言うと高校生ではなく中学生との狭間の時期)の頃にグラスアート工房でバイトしてた時、トレーシングペーパーが欠かせなかった。
中学生の頃からトレーシングペーパーを愛用していたが、それまでは紙から紙に写す使い方しかしたことがなかった。若かった私は「素材の違うものに情報を重ねることができるなんて、すごいことだ!」と思っていた。次元の違うものの間で見立てを写し合う作業にドキドキしたものだ。
私にとってトレーシングペーパーはただの半透明なペラペラの紙ではなくて、物の見方を変えてくれた魔法の紙。ツールには、自分の知らない使い方がいくつもあって、工夫次第で思いも寄らない使い方ができるんだと学んだ時期でもあった。
だけどその感じをうまく誰かに伝えるのが難しい。どんな道具を通してどんな経験をして、その道具が自分にとってどんな存在なのか。いつもなめらかにストーリーを語れるとは限らない。
「自分にとってトレーシングペーパーがどんな存在か」みたいなレベルの話を余すことなく伝えるのには、時間と労力が要る。下手すると説明をしている間に人生が終わってしまいかねない。私のような元来のコミュ障人種は、伝えることなんて土台無理な話だと決めつけて、コミュニケーションを諦めがちになる。中途半端にな伝わり方をするのが嫌で、面倒だと感じてしまうのかもしれない。
人や物や様々なものの関わり方を考えていきたいと思っている立場においては、大変に問題ある振る舞いだと思うわけだ、我ながら。しかしながら、突き詰めるとみんなそうなんじゃないの? とも思う。だからこそ、うっかり放り投げてしまいたいようなやりとりを(あるといいなと思われる場所に)留める行為に執着したがるのだろう。
突き合わせてみないと、人の価値観は見えない。そんな当たり前のことを、トレーシングペーパーがもう一度教えてくれているような気がする。