蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

教養のこと

いろんな場面で、教養ってなんだろうねって話をすることがある。

まだうまくまとまっていないのだけど、何度か話をしていく中で「それは色合いの違う知識や体験が地層のように何層も重なっていく先にあるものなのかもしれない」…というのがしっくりくるようになった。不完全ではあっても、現時点でのイメージを残しておきたいなーと思ったので書き残す。

教養、生きる基礎体力、自分らしさ

知識や体験は栄養であって、自分自身が生み出すものとは違う。だから、得るだけでは土にならない。腐ってしまうことだってある。いろいろな色の栄養を混ぜ返して耕す=土を作ることで基礎体力を強くする。生きるための基礎体力、学ぶための基礎体力、伝えるための基礎体力。

いろいろな色の栄養を耕すと、土ができる。耕してできた土が、自分の土台としての教養になる。腐らせないように耕して、はじめて教養になるのだ。その土の上に咲く花が、個性であり、人間性であり、自分らしさそのものなのかなぁって感じがある。もし実がなるとしたら、それは自分らしさが生み出した何かの成果なんだろうね、きっと。

教養のことを考えたときのイメージ

意思(will)と意図(intention)

土にも花にも意思(will)と意図(intention)が反映されているはず。どんな色の栄養を増やすか伸ばすかは自分次第で、それははっきりとした「意図」で選んでいる。

今日は青い土を耕すかもしれない。明日は赤い土を耕すかもしれない。たくさんの色を混ぜて、自分でも知らない色の花を咲かせるのかもしれない。ひたすら同じ色を耕して、ひとつの色の花を咲かせるのかもしれない。色のチョイスに正解はない。たぶん。

正解はなくても、意思と意図が、必ずそこにある。

心理学者ド・シャームが言うところの「人間の最も基本的な動機づけの傾向は自分の取り巻く環境に自分の意図するような変化を生じさせたいというもの」という言葉を信ずるなら、「耕す」というのは本能でも外発的な動機付けでもなく、内発的な動機=「自己原因性」が関わっているのだと思う。

だから、教養とは他人に促されても深まるものではない。自分の意思と意図で、土を耕す。そこで得られる基礎体力、その先にある自分らしさが、自分自身を作っていく。

自己原因性感覚を大事にすること

ド・シャームの言う「自己原因性感覚」を失えば、きっと人は教養の意義や意味を見出せない。他人の将棋の駒であるうちは、意思や意図や生きる基礎体力を持たなくてもいられるから。

教養を深めるために必要なのは、だから詰め込み式の勉強ではない。もっと体育に近い何かだ。不完全ではあるけれど、今の私はそんな風に考えている。これは、このときの私はこんな風に考えてたでしょ? と、未来の自分に言っておくためのメモなのだ。

ハローハロー、未来の私はどう? 違う答えを見つけたかな?

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