蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

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創造性のダークサイドを超えてゆくために

Facebookでたまたま流れてきた話題をきっかけに、創造性のダークサイドという記事があったのを思い出した。人間の創造性は、「不幸」となんらかの関係があるという内容である。

憂鬱な気持ちはなぜ芸術性を高めるのだろうか? これには、情緒と認知の絡み合いが関係している。悲しさはわれわれを、より注意深くし、細部に関心を持たせ、焦点を合わせやすくするのだ。

創造性のダークサイド:心理学研究

私自身、この数年間の中で同じ事を考える機会が何度かあった。

すごく思い悩んだ時期と今とのギャップ

ある時期、情緒的な意味で、何年もとても思い悩んでいた時期がある。平たく言うと「自分探し」的な期間で、心のうちはずっとダークサイドだった。「先のことはわからない」という言葉と共に、わりとあちこち放浪したりもした。

今だに自分なんて見つかってないうえに(そんなもの死ぬまで見つからない気が今はしている)、悩みの質や量という意味では今の方が具体的だし重みも段違いなのに、今はダークサイドにいるとは感じない。本当にまったく、感じなくなった。つまり今はとても幸福なのだ。(年を取ったともいえる)

その代わり、源泉がひとつ枯れてしまったような感じは否めない。あの頃に持て余していた暴力的な衝動を感じないのは少しさみしくもあり、けれど同じだけ伴っていた苦しさや焦燥感もなくなって軽くなった感じ。先ほどの理屈から言えば幸福と創造性のトレードオフなのかもしれない。

「私」にとって、破滅的な創造性は必要か

しかし、「私」が今の仕事を続けるうえで、ダークサイドに自分を追い込むような破滅的な創造性が必要なのか。考えてみたけれど、どうもそれは違う気がする。

破滅が釣り合うほどの天才芸術家ならともかく、私ごときが多少破滅的になったからと言って超天文学的な何かを生み出せるわけではない。

そもそも、破滅とは対極にある部分を担って働いていると思う部分も大きい。いつでも正解がわからない中で仕事をしているし、試行錯誤の中にいることは事実だ。だが、必ずしもダークサイドに寄らなくても、ゴールを目指せる仕事をしていると信じていたい。

ダークサイドに背を向ける

あれやこれやと思いは行き過ぎるが、今の比較的おだやかな暮らしの中で健全に暮らしながら健全に仕事を続ける工夫、モチベーションを保つ努力をしていくのが一番だなぁなどと、ひとりの凡人である私は考えてしまう。

日の出

私は多くを持たない人間だ。目立った才能も、華やかな運も。だからこそ、ひとつひとつを自分の歩幅で踏み外さず歩く力が欲しい。ダークサイドを求めてそちら側に身を任せたら、それは叶わないものになってしまう気がする。いい加減、そういうものは超えてゆきたい頃合いだ。

自分から望んで不幸を求める必要はない。ダークサイドには背を向けて、できることをできる形で続けていこう。そういう思いを新たにした新年だった。

無理やりまとめたわりには全然まとまっていないが、ともあれ、まとまってなくてもグダグダでもいいから、今年はいろいろな「思い」も書き残せたらいいなと思っている。


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