演劇的であるということがどういうことか、自分なりに考えている。先日、演劇の世界にいる人の目線をちょっとだけ垣間見る機会があり、それ以後ぼちぼちとそんなことを考えているのである。
私自身は演劇に対してなんの素養もなく、好きではあるけれども熱心な愛好者ではなく、年に一、二度観劇するくらいがせいぜいという一般的な消費者だ。享受者というほどのめり込んでいないので、消費者という言葉がちょうどいいくらいなんだろうなという感覚。
そんな素人の私が彼の目線と切り口をほんの一瞬借りて、彼という眼鏡と通して世界を覗き見してみた時、ああなんということだ、本当にこれっぽっちもわかっちゃいなかったんだ、と気付かされる場面があったのだ。
演劇が成立するための条件も知らないし、構成要素も知らない。演劇的であるということがどういうことか、自分なりの言葉で語れるものを何も持たない。もちろん、知っているつもりになっていた程度のことは知っている。ただ、彼の眼鏡で見えてしまった向こう側に自分が立った時に、私は何も持っていない。理屈として腑に落ちるもの、体感して染み付くもの、その両方が欠けている。
知らないと思ってしまった時に、演劇って自分が捉えていた以上におもしろそうだなぁって、思ってしまった。思ったからといって、自分が演劇の世界に行くなんてことはないのだけれど、「演劇的」であるということをもう少し突き詰めて考えたくなった。なんとなく与えられていた解釈ではなくて、その先をもっと見てみたくなった。
そんなこんなで、現時点ではタイトルに対する明示的な答えはない。そういったことに改めて興味が湧いたよ、というだけの話である。
でも、眠っていた目がひとつ開くって、私にとってはとても気持ちのいいことで、だから忘れないようにブログに残す。そういう自分のためだけのアウトプットがあってもいいよね。