蠍は留守です考

蠍の輪郭を見つめてふける思惟の痕跡

20170509013806

「普通でよくない?」の意味

du pope : NAKANO Hajime's Blogさんのエントリで、前回のだれコンまとめを紹介していただいた。ありがとうございます。その中でこのようなお話があったので、追記エントリ。

こちらのエントリーの「普通でよくない?」ってパラグラフは、ちょっとぼくにはピンと来ませんでした。「普通」と「思いやり」、どっちの心持ちがどんな行動・施策につながるのか...まで考えたいかも。

あのエントリにひとつ付け加えると、完全にデバイスやサイトの制作・実装目線での感想だったので、コンテンツホルダーもしくはビジターのことはあまり考慮に入れていない感想だった。その思いはごく普通にアクセシブルなウェブとデバイスを実現できるようになればいいのにな、のひとことに凝縮されている。

たとえばWindowsのみに対応しているサービスがあったとして、新バージョンでMacintoshにも対応しようとする時、それってMacユーザに対する「思いやり」で対応するものなのだろうか。携帯電話での表示もできるようにしようとする時、携帯ユーザへの「思いやり」で表示させるのだろうか。この2つの例えの場合、違うと答える人の方が多いんじゃないかな。と、私は思っていて。

じゃあなんで、障害者がスムーズに操作できるよう何らかの対応をしようとする時に限って急に「思いやり」って言葉が出てくるのかな? と感じるのだ。私にとっての違和感はまさにその感覚のズレに対するもの。

何より残念なのは、アクセシビリティという言葉の意味が狭められてしまうことだと考えている。特に「アクセシビリティ=障害者や高齢者への思いやりだよ(以上、終了)」みたいな、ある意味ちょっと歪んだ公式が今以上に普及するのことを懸念しているので、啓蒙する立場にいる人には影響を考慮して使ってほしいフレーズだなと思う次第なのだ。特に制作者側には、ねじれたまま思考停止してほしくない。言葉は容易にフィルタに成り得るものだと思うので。

ウェブに限った話ではないのだが、私個人レベルの感情として「障害者に対する行い≒思いやり」という公式めいた考え方が、実は苦手だ。

ごく個人的な感じ方でしかないが、まれに「本当は面倒くさいけど特別に対応して差し上げる(思いやりだよ)」みたいなニュアンスが汲み取れてしまうこともあったりして、その姿勢は(対応しないよりはマシだが)もやもやする。

だからそういう意味でも「普通でいい=普通な世の中であってほしい」とあえて言いたい感じがある。私がひねくれているだけかもしれない。

先のまとめエントリではそのあたり言葉足らずだったが、「思いやり」そのものを否定する意味ではない。ごく自然にそういう気持ちが存在する世界がハッピーだと思う。

そうは言っても、アクセシビリティは、まだまだ認知を広めていく必要がある分野。今後もより一層、インプット・アウトプットが盛んに行われていくといい。


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