私が仕事だったり趣味で取り組んでいることは、往々にしてめんどくさいものである。
ただでさえめんどくさいものを、できるだけめんどくさくなく取り扱っていくためにどうするか、という立ち位置に立って仕事やら何やらをしている。と思っている。要するに、常に「めんどくささ」と共に呼吸をしている。
ある種の「めんどくささ」を解消するためにデジタルツールやなんかを使うわけだが、先日それがほとんども持ち込めない環境でプロジェクトを動かすことになった。ちょっぴりめまいがする気がした。もう一度20年前に戻るくらいの感覚で物事をはじめないといけない。と、思った。体感値としては、実際20年前ジャストぐらいの感じに思えた。
だけど、意外となんとかなった。なんと、むしろめんどくさくなかったのだ。
どうしてかというと、方法論を理解し合おうとする姿勢が関係者みんなにあったから。道具はなければ使えないけれど、方法論はどんな形ででも使える。デジタルとかデジタルじゃないとか、そういうことは関係ない。一緒に何かをする相手がどんな道具を使う(使わない)人でも、「めんどくささ」を乗り越えるための方法論がその場にあれば、困ることは少ない。
逆にいえば、使う道具が同じなのに共有する方法論を理解しようとしない関係性というのは、何よりもめんどくさい。
それで、私はしみじみ思ったわけだ。同じ方法論(それは都度違うものだけれど)を共有している相手と同じ道具を使えるようになったら、どれだけ生産性が上がることだろう、と。
人によって「めんどくささ」の基準値やレイヤーは違うから、私にとっての便利な道具自体が誰かにとっての「めんどくささ」そのものというケースもある。いろんな「めんどくさささ」を切片化して、同じテーブルに乗せて、必要な「めんどくささ」と必要ない「めんどくささ」の切り分け方を伝えていくことが求められるのだろう。
今は目の前のことがめんどくさいことだと気付いていない人でも、洗濯機を捨てて手洗いだけに切り替えろと言われたら、めんどくさいと思うはず。そう考えると、目の前のことがめんどくさいことであると知らないケースだってある。だから、「めんどくささ」に愕然としても、そこで断絶しないで、伝える努力が必要なのだろう。
様々なことの過渡期だと言われているけれど、ここにもひとつの過渡期がある。橋を渡す人がきっと必要なのだ。たぶん。